「尊厳」ということ -金の卵を産まないガチョウ- 「それでも人生にイエスと言う」

フランクルの 「それでも人生にイエスと言う

数年前にシンバ先生の推薦で買った本。

フランクルはカントの

「あらゆる事物は価値をもっているが、人間は尊厳を有している。人間は、決して、目的のための手段にされてはならない。」

を引用した後、こう続けています。

けれども、もうここ数十年の経済秩序のなかで、労働する人間はたいてい、たんなる手段にされてしまいました。自分の尊厳を奪われて、経済活動のたんなる手段にされてしましたました。もはや、労働が目的のための手段に、生きていく手段に、生きる糧になっているということですらありませんでした。むしろ、人間とその生、その生きる力、その労働力が経済活動という目的のための手段になっていたのです。

私は、これまで、自分が誰かの(所属する組織の)「目的のための手段」であるとは、これまで感じたことはありません。

そして、他者をそんなふうにとらえてはいけないし、そんなふうに感じる人がいないような組織運営を目指したい。

(自戒をこめて)

でも、何かの本で、「金(目的)をたくさん生ませようとして、ガチョウ(手段)を死なせてしまうのは愚かなことで、金の卵を得るためにはガチョウを大切にしなければならない」というような話を読んだとき、特に疑問を抱かずにいた自分がいます。

「生産性を上げるためには、メンテナンスやトレーニングが大切」というのは確かでしょうが、

「金の卵を産まなくても、どんなガチョウでも大切にされる。」

それが「尊厳」の本質なのだと思います。

 

それでも人生にイエスと言う

それでも人生にイエスと言う