「子どもに競争原理を」?

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「子どもにも競争原理を」 文科相、学力調査見直しも

 中山成彬文部科学相は5日の会見で「もっと子どもたちが切磋琢磨(せっさたくま)する風潮を高めたい」と、子ども同士にも競争原理が必要との認識を示した。
 その上で、文科省が実施している教育課程実施状況調査(学力テスト)について「全体の中で、自分がどういう位置にあるのかを自覚しながら頑張る精神を養うよう検討していったらいい」と、見直しが必要との考えを明らかにした。

 うーん、どうやら日本が外国人に負けているとの認識と現実社会での厳しさを踏まえて、競争原理を学校に、という発想らしいですが…
 確かに、運動会で順位を付けない”かけっこ”とか、ヘンに競い合いを避ける風潮はバカげているとは思うけど。
 ま。テストの点数を競うぐらいなら害は少ないかもしれないけれど、「自らが生き残るためには他人を蹴落としてまで」というような雰囲気に小学校からなってしまったら、親としてもイヤだな。
 これからの社会は、「競争原理」よりも「協力原理」で考え、行動する生き方の方がいいと思うんだけど。

 ちょっと長いですけど、以前あるところで「ノーマライゼーション」をテーマに講演したときのメモの一部を載せます。
 競争原理と協力原理については、野田俊作先生の「クラスはよみがえる」から、ほとんどひっぱってきています。

クラスはよみがえる―学校教育に生かすアドラー心理学

クラスはよみがえる―学校教育に生かすアドラー心理学

 高齢者介護や年金・医療、まったく年寄りには金がかかる。何で自分達ではない世代の負担をかぶらなければならないのか。
 子育ては大変なコストがかかる。大変面倒なことだ。できればごめんこうむりたい。ましてや他人の子どものことなんて知ったことか。
 障害のある人の社会参加?何の役にも立たないじゃないか。
 こうした貧しい心は、すべて競争原理から生まれるのではないでしょうか?
 

人よりいい暮らしがしたい。他人に勝たなければならない。よい学校、よい会社に入るためには、人をけ落としてでも競争に勝たなければならない。
 競争原理に基づく社会では、必ず勝利者−ごく一部の上位者と敗者−大多数の下位グループが生まれ、両者は敵対関係とならざるを得ません。
 この競争原理こそが、今の学校、地域社会、家庭の様々な問題の根源ではないかと思います。
 世の中は競争社会だから、それでいいのではないかと言う方がおられるかもしれません。
 百歩譲って企業の競争を認めたとしても、一人の人生からみれば働くのはたったの40年、会社にいるのは時間にしてその3分の1ですから、13年ぐらいですね、人生80年としても、たったの6分の1の時間に過ぎないわけです。その残りの時間をどう過ごすというのでしょうか。
 また、競争して、切磋琢磨することで人は成長するのではないかという人がいると思います。
 そうではなくて競争原理を捨てて、それにかわる協力原理で生きる人の方が急速に変化する現代社会にうまく対処して生きてゆくことができるのです。
 第一に協力原理で生きる人は、自分と他者とを比較しないので、自分のしようとすることに全エネルギーをそそぎ込める。
 競争原理で生きる人は、いつも自分と他者を比較して「他者は自分のことをどう思うだろうか」ということばかり気にしています。
 それはエネルギーの浪費です。
 協力原理で生きる人は、「他者の評価が問題ではない。大切なのは、私が私のすべきことをしているかどうかだ」と考えます。
 ですから、いつでも自分がしようとしていることに全力投球できるわけです。正しいと信じることであれば、たとえ大勢の人が反対しても、断固としてやりとげようとします。
 しかし、協力原理で生きる人が頑固で独りよがりであるわけではありません。他者と協力するすべを知っています。
 これが協力原理で生きる人が競争原理で生きる人よりも強く生きられる第二の理由です。競争原理で生きる人にとって他者は敵です。これに対して協力原理で生きる人は、他者を競争相手としてみるのなく、いつでも仲間として協力者として、他者と関わります。
 協力原理が競争原理よりすぐれている第三の理由は、恐怖心から行動しないことです。競争原理で生きる人はいつも「負けると大変だ」という恐怖心を抱いています。ですから、いつも不幸です。人生をほんとうに楽しむことができないのです。たとえ勝っている時でも、いつも不安です。
 これに対して、協力原理で生きる人は、勝ち負けにこだわらず、人生を楽しむことができるのです。不安や恐怖心や劣等感から逃れるために行動するのではなく、積極的に目標を設定して、それを楽しみながら追求します。
 
 私の考える「共に生きる社会」はこうした協力原理で生きる人達の社会です。
 子どもたちの「心の教育」も、そうした原理に基づく社会の実現なしには、単なるかけ声に終わってしまうような気がします。
 どうでしょう?